6 月に当たり、教会は私たちがイエスのみ心を通して神のみ心の神秘を観想するように示します。その神秘とは、人類にご自分の愛を注がれる神のいつくしみ深さ、あわれみ深さです。神は限りないいつくしみをもって独り子を世に遣わし、悪と死の力に打ち勝ちました。それは、罪の奴隷となった人間に子としての尊厳を回復させるためでした。
イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表します。神の限りない愛は、その愛の与えるだけではなく、その愛にとどまることができるのです。「私の愛にとどまりなさい」(ヨハネ 15・9 参照)というイエスの招きは洗礼を受けたすべての人に向けられています。ある意味で「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」(マタイ 11・28-29)という招きは私たち一人ひとりに向けられています。
イエスの愛とあわれみが生み出すものは力と命です。聖書の中に多くの場合は、イエスは死にそうだった人に力を与え、活き活きとさせ、死んだ人に呼び掛け、眠りから覚ますように生き返らせます(ルカ 7・11-17 参照)。
主は私たちを忘れ、捨てることなく、いつも愛をもって私たち一人ひとりを見守っておられます。いつくしみをもって私たちを招き、私たちを待っておられます。疲れ思い悩み、重荷を負う私たちが自分の内的な軛、傷を主に示すなら、主は常に私たちを癒し、共に担って下さいます。主はいつくしみ深い心をもっておられるからです。ですから、私たちは主に近づくことを恐れてはなりません。イエスの方へ歩んでいきましょう。
私たち一人ひとりは恐れなく主に近づき、主の愛にとどまることだけではなく、周りの人々が安心して近づきとどめるように、「憩いの場」でなければなりません。私たちは柔和で謙遜な者でなければなりません。私たちは寛大な心をもっていかなければなりません。そうするために、金や名誉や権力などのこの世の価値観と利己主義でなく、受け入れ合う精神を持つべきではないでしょうか。
6月 16 日(日)14 時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂において再宣教150 周年感謝ミサが行われます。共に感謝をささげ、「~未来の宣教へ再出発~」のお恵みを願い求めましょう。6 月中のそれぞれの祭日を大切にし、私たち一人ひとりが福音の力により、あらゆるところで愛の文明を築き続けることが出来ますように。私たちが兄弟姉妹に対して柔和で謙遜であわれみ深い者となることが出来ますように。