今年8月14日は、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の没後75周年を迎える。今から75年前と言えば、1941年、昭和16年、我が国が太平洋戦争を始めた年に当たる。この年すでにナチスの支配下にあったポーランドでは多くのユダヤ人たち、学識経験者らが逮捕されていた。コルベ神父もその一人だった。 コルベ神父が創設したワルシャワ近郊のニエポカラノフ(無原罪の園)修道院には、約700人の修道士たちがいた。修道院の中には、印刷工場があり、日刊紙、月刊誌、子ども向け雑誌、などを数百万部出版していた。修道士だけの消防団も組織していた。この大修道院のトップだったコルベ神父の行動をナチスは警戒した。ポーランド民衆に多大の影響を与える危険人物ということで、ナチスは1941年2月に、コルベ神父を逮捕、拘束した。同年5月、コルベ神父は恐怖のアウシュビッツ強制収容所へ送られた。

それから2か月後の7月末、コルベ神父と同じ収容棟から一人の脱走者が出た。その見せしめのため、同じ14号舎囚人10人が無作為に選ばれ、餓死刑となった。その折、コルベ神父は餓死刑を言い渡された若い父親の身代わりを申し出た。神父は他の9人とともに地下牢に入れられた。囚人の声を一切無視したナチスが、コルベ神父の身代わりを認めたのは、不思議である。約2週間後、餓死室に残ったのはコルベ神父ただ一人だった。監視兵は、薬物を注射してコルベ神父を処分した。時に1941年8月14日だった。

コルベ神父の死が日本に伝わったのはいつごろだろうか。はっきりした日付は分からない。長崎でコルベ神父の秘書役をしていたセルギウス修道士の記憶によれば、1943年、コルベ神父の死後2年たってからという。

コルベ神父の英雄的な死は、戦後いちはやくヨーロッパをはじめ、世界中に広く伝わり、いつしか列福運動へとつながった。1971年10月17日福者に、1982年10月10日聖人に挙げられた。

コルベ神父と親交のあった長崎の永井隆博士が興味深い話を残している。「ルルドの奇跡」という随筆の中に、コルベ神父の取り次ぎと思われる恵みを記している。原爆で負傷し、頸動脈の出血が止まらなかった時、ある女性から「本河内のルルドのお水です」と言って飲ませられた直後、昏睡状態になった。目覚めた時、なんと出血が止まっていた。永井博士は、何人もの医師が止められなかった出血が止まったのは、マリア様の奇跡としか考えられない、と書いている。長崎市本河内にルルドを造ったコルベ神父の取り次ぎに違いない、と訴えているようだ。
(聖母文庫・永井隆「原子野録音」P33-38参照)