西宮市仁川町の聖クララ修道会で産声を上げたカトリック仁川教会の新聖堂は、同市段上町に献堂されました。1952年5月11日のことです。そのとき、大阪教区からコンベンツアル聖フランシスコ修道会に、司牧活動が委ねられました。初代主任司祭に任命されたのは、ヤノ・コーザ神父でした。1938年、ポーランドから日本に派遣され、長崎・聖母の騎士修道院で働きました。献堂記念日にちなんで、仁川教会の基礎を築いたヤノ神のことを紹介しましょう。筆者がヤノ神父と初めて出会ったのは、高校時代でした。ヤノ神父は仁川教会主任司祭を退き、長崎・聖母の騎士修道院に転任していました。1957年頃です。私たち小神学生にラテン語を教えてくれました。日本語は流暢に話していました。出来の悪い生徒に対しても声を荒げることなく、丁寧な授業でした。

しかし、仁川教会の主任司祭時代は、かなり厳しかったようです。初期の教会委員を務めた越知昌夫(2012逝去)さんから、いくつか思い出を聴きました。夜8時頃、会社から帰って寛いでいると、主任司祭から電話で呼び出しがよくかかったそうです。そんな時、幼い子どもたちは、「またぁ」と言って父親の顔を見上げました。こんなこともありました。教会には、時々、電車賃をくれ、と言って訪ねて来る男がいました。ヤノ神父は、すぐお金を渡さないで、越知さんに頼みました。「あなたが切符を買って、この人を梅田まで送って行ってください」と。お金が電車賃以外に使われないように、越知さんに監視を頼んだのです。そんな主任司祭の要請にも、快く応じた越知さんも偉いと思います。

1965(昭和40)年頃から、ヤノ神父には新たな宣教活動が課せられました。長崎県の壱岐の島での生活です。ヤノ神父は港の近くに民家を借りて、英語教室を開き、キリスト教の宣教に努めました。いつの日か、島にカトリック教会を建てるのが夢だったようです。

貧しい生活を送りながら、コツコツと資金を貯めていました。壱岐では、1622年8月10日、海辺でイエズス会のアウグスチノ太田修道士が斬首により殉教した記録が残っています。ヤノ神父は、かつて殉教者を出した壱岐で、キリスト教の復活を願っていたのでしょう。ヤノ神父の最期は、あっけないものでした。

1985(昭和60)年12月20日、風邪をこじらせて入院して、帰らぬ人となりました。たまたま、筆者は同じ修道院の食堂でヤノ神父と食事をともにしていた仲でした。神父は、年賀状を書いて出し、間近に迫った新年を迎えようとしていた矢先の突然の死でした。ヤノ神父の姿はいまも脳裏に焼き付いています。