キリスト教には、共生性という特別なたまものがあります。主イエスは人間の私たちの喜び・悲しみを共に分かち合うためにこの世に来られました。主イエスは、特に食事の時間、夕食の時を選んで、ご自分の霊的なあかしを弟子たちに託し、真理と永遠の愛を育み、救いをもたらす食べ物と飲み物として、ご自分のからだと血を与えたのです。

私たちの一人ひとりは、御ミサを通して、「共に生きる」体験をしています。御ミサを一緒に捧げることによって、自らのうちに閉じこもろうとする誘惑を退け、愛と忠誠のうちに強められ、キリストの“み心”に従って兄弟姉妹愛を広めるのです。

では、今の自分の家族(小教区を含む)の現状はどうでしょうか。食卓を囲んで、食べものだけでなく、愛情、話し、行事を共にしているでしょうか。めったに食事を一緒にしない家族、互いに話し合いをするよりもテレビを見たり、スマートフォンやゲームなどで遊んだりしている家族は、「100%家族」と言えるでしょうか。家族成員が机の上にコンピューターや携帯電話、ゲームに夢中になり、互いに話をしない家族は、家族ではなく、寄宿舎のようなものでしょう。

今日、多くの社会的要因により家庭の共生性が妨げられています。家族の成員としての一人ひとりは、家庭の共生性を取り戻す方法を見つけなければなりません。

多くの方法の中の一つの方法としては、食卓を囲んで、互いに話し合い、耳を傾け合い、利己主義を捨てて、自分のことやテレビ、コンピューターのことばかり考えるのではなく、共に生きるために必要なことを分かち合い、支え合わなければならないでしょう。

私たちはやるべきことを認識した上に、「感謝の祭儀の神秘」に目を向けなければならないでしょう。主はすべての人のためにご自分のからだを裂き、ご自分の血を注ぎます。この交わりのいけにえに抵抗できる分裂などないからです。キリスト者の家族の生き生きとした力強い契約は、日々の苦労や喜びに先行し、それらを支え、もてなしのダイナミズムの中にそれらを受け入れます。そして御ミサの恵みのうちに働きます。御ミサは、受容し救う力をもって交わりを新たにすることができるのです。それに、キリスト者の家族は見捨てられた人、除外された人を受け入れ、守り、促進し、共生することができます。全ての家族(小教区を含む)の共生性が、今後とも育まれ、成就するよう心を合わせて祈りましょう。感謝と賛美のうちに!!