今年3月6日から全教会と共に四旬節に入ります。四旬節は、私たちの信仰生活・日常生活で心の底から主に立ち帰り、常に新しく、喜びにあふれるよう私たちに呼びかけ、そのことを実現させる時です。

毎年の四旬節第1主日にイエスの誘惑という記事が読まれます。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、イエスの荒れ野における40日間の誘惑物語が記されています。悪魔は主イエスに三つの提案をしました。一つ目は、「神の子なら、石をパンに変えてみたらどうか」という提案。二つ目は、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」という提案。三つ目は、「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」という提案です。

キリスト者の私たちも主イエスと同じく、様々な誘惑に囲まれています。特に現代社会に生きている私たちは、「隣人や神に対して無関心でいたいという強い誘惑」があります。目立ちたいという欲望、他人を見下す視線、何もかも知り管理したいという態度などがあります。

今日、上記の態度と欲望が、この世界中に広まっています。私たちは通常に、自分が健康で快適に過ごしている時には、他の人々のことを忘れてしまう傾向があります。私たちの心は他の人々の問題や苦しみ、耐え忍んでいる不正義、思い悩みなどに関心を示さずに冷たくなってしまうこともあります。人間の私たちは、自分の中に閉じこもり、神がこの世に来られても、現存しても心の扉を閉ざしてしまいがちです。

四旬節は、恵みの時であり、心を新たにする時です。無関心になりがちな私たちは、改めて主イエスと共に「喜びと真理のうちにこの恵みの時」を過ごすべきでしょう。喜びと真理のうちに神の姿を見つめながら、無関心や頑なな心を克服しなければならないでしょう。

去年の灰の水曜日に、聖サビーナ教会で捧げられたミサの中で、教皇フランシスコは説教で、「立ち止まる」「見つめる」「帰る」という言葉を挙げながら話されました。むなしく走り回ることをやめ、沈黙の豊かさを忘れた騒音の前で立ち止まるようにと諭されました。十字架上のキリストの姿を見つめ、多くの困っている兄弟姉妹たちの顔を見つめ、その苦しみ、希望、必要性を知り、また行いをもって応えるように説かれました。また、御父の家に、いつくしみにあふれる御父の腕の中に恐れることなく帰り、その癒しと和解の力に満ちた優しさを実感するようにと、招かれました。

この四旬節の歩みが、実り豊かなものとなるよう祈ります。どうか、私のためにも祈ってください。

感謝の祈りのうちに !