どの家庭も誰も必ず死を体験します。死は人生の一部ですが、家族愛を考える時、死はとても自然なこととは思えません。

カトリック教会で行われる通夜式は、「親しい人との別れは、誰にとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人の死を前にして、胸の張り裂けるような体験で、深い溝が口を開き、過去も未来ものみ込まれてしまうかのような体験でしょう。最愛の人を失い、残された人の心の中に開いた喪失感という穴もあるはずです。

私たちは、肉体の死と直面する時、喪失感と怒りと深い悲しみがあります。しかし、肉体の死に直面するだけではなく、憎しみ、ねたみ、高慢、傲慢、無関心といったさらに悪いものに直面しています。人間の歴史の中で、家庭のきずなはこれらの死の力によって無力な犠牲者となるよう宿命づけられているかのようです。世界各地で、人々の憎しみと無関心によって、死の恐怖をつのらせる出来事が何度も起きています。

キリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはこのことを表明します。「キリストは『私は復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにも私たちは、このキリストの言葉に慰めと希望を見出します。」

信仰の内に私たちは、主は死に完全に打ち勝つことを認識し、互いに慰め合うことができます。私たちの愛する人は、無の闇の中に失われたのではなく、神の優しく力強い手の中にいるのだと、希望をもって確信することができます。こういう信仰は、死に対する虚無的な考え方や世間の誤った慰めから私たちを守ってくれます。

「死者の月」に当たり、改めて、私たちは家庭内の悲しい体験における信仰の意味をより具体的に示さなければなりません。私たちは、死を迎える最も辛い時期に、死者の復活という確かな約束を携え、十字架に付けられ復活した主の確かな道を見出し、神の愛のわざ、イエスのわざを忘れないようにしましょう。そして、私たちは、聖徒の交わりを土台として、生者と死者を問わずすべての兄弟姉妹と連帯関係を築きましょう。死者のための祈願をささげ、すべての兄弟姉妹を慰め合っていきましょう。