十字架は、2000年前ローマ社会での死刑を執行するための道具の一つです。十字架刑は、国家反逆罪などの重罪に対して、死刑囚を十字架に釘付けにし、呼吸困難に陥れて殺すという残虐な刑です。江戸時代の日本でも十字架刑は利用されました。このように十字架というのは、キリスト教徒以外の人にとっては、気持ちの良いものではないでしょう。

十字架を死刑の道具と認識した上で、十字架を崇めようとするのは、キリスト教の信徒だけなのです。キリスト教の信徒の私たちは、十字架を見ることによって主イエスのことを思い出し、ただイエスのことを思い出すのではなく、十字架を通して私たちに行われた救いの神秘を思い起こすのです。

フィリピの教会への手紙の中に聖パウロは、イエスについて「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2.6-8)と書いてあります。

刑罰や苦しみや重さなどについて考えると、私たちも傷みや苦しみ、病い、過ちなどを背負っています。重さや大きさや形や表れ方は様々です。

四旬節は、その傷み、弱さなどを見つめ仰ぐ特別の期間です。しかし、仰ぐばかりでなく、尊び、大切に思う期間です。なぜなら人間の私たちは自分の傷みや苦しみを頻繁に感じますが、神との関係をたびたび忘れてしまうからです。十字架上でのイエスは多くの人々の罪のあがないのために、ご自分をいけにえとして捧げられたから、イエスの十字架は、私たちにとって新しいいのちへの出発点ともなったのです。ですから、私たちは自分の十字架を感じ眺める時、イエスの受難と死、神との関係を思い起こし、希望を新たにさせるのです。

私たちが十字架の意味を悟り、十字架を崇めていくためには、改めて、私たち一人ひとりも聖パウロの言葉を自分に置き換えてみたらどうでしょう。これから、自分は”自分の考え方や価値観、生きてきた人生観などに固執しようとは思わず、却って自分を無にして神の意志に倣って、他人のために、他人と共に生きよう、奉仕しよう”と決心したらどうでしょう。自分を捨てて、自分の十字架を背負って生き、神との関係を思い起こし、復活への希望を新たにすることができるように、十字架のもとに立ったマリア様の取次ぎによって願い求めましょう。