もうすぐ2月。この時期になると、1981年2月の記憶がよみがえる。史上初めての教皇来日である。教皇ヨハネ・パウロ2世が羽田空港に降り立ったのは、1981年2月23日午後3時過ぎだった。東京には、みぞれ混じりの雨が降っていた。教皇は、羽田空港から、文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂に向かわれた。大聖堂前で、傘を差しかけられながら、第一声を発せられたのが、忘れられない。「ついに、日本に来ることができ、とてもうれしく思いまぁす」。ポーランド人の教皇がいきなり日本語であいさつされたのには、みんな驚いた。聖職者や信徒代表と会われた後、教皇は、車椅子に乗った老修道士、ゼノさんを接見された。ゼノさんは、教皇の手を両手で握り、「パパ、パパ」と呼びながら、涙を流した。この様子は、午後7時のNHKテレビの電波に乗って流され。全国の人々の感動を呼んだ。翌朝の大新聞の社会面トップも教皇とゼノ修道士の対面の場面だった。
2月24日午前11時過ぎ、教皇は皇居に天皇陛下を訪ね、親しく会話を交わされた。鈴木善幸総理大臣は、千代田区三番町にある駐日教皇庁大使館を訪れて、ヨハネ・パウロ2世に謁見した。教皇が、国賓でもなく公賓でもなかったからである。教皇と会った後、印象を問われた鈴木首相はこう答えた。「宗教者の威厳というものを感じました」
翌日、2月25日朝、教皇は羽田空港から空路広島へ向かわれた。午前11時過ぎ、全世界に向けて教皇は8ヶ国語で「平和アピール」を行われた。平和祈念館で原爆の悲惨な状況を目の当たりにされた。夕刻、教皇は広島空港から長崎空港へ移動された。この教皇を追いかけて、ジャーナリストたちも航空機で長崎へ行った。新聞やテレビの報道関係者の乗る飛行機は全日空チャーター便だった。羽田から広島へチャーター便を飛ばすのは、簡単ではなかった。航空会社との交渉、広島空港の許可など、難しい問題があった。広島-長崎間に定期便がないため、なんとしてもチャーター便を出してもらうしかなかった。約90人乗りの全日空機を飛ばすことが出来たのは、なんといっても教皇取材という大義名分がものをいった。2月25日午後5時過ぎ、大村空港から長崎に入ってみると、雪が舞っていた。
翌朝、長崎・中川町のビジネスホテルで目を覚ました。窓から路面電車の線路を見ると一面雪に覆われている。果たして、9時半からの教皇の野外ミサは行われるだろうか、と心配になった。しかし、雪の中、3万人以上の信徒たちは寒さも忘れて教皇ミサの感激に浸ったのである。