「世界中の青空を東京に集めたような青空です」という台詞がラジオから流れたのは、1964年10月10日、東京オリンピックの開会式。NHKのベテラン・スポーツアナ、鈴木文弥さんの表現だった。
10月の声を聞くと、あの興奮した東京オリンピックを思い出す。東京オリンピックは、修道院に初めてテレビがやって来た日でもある。ポーランド人院長、ユスチノ・ナジム神父の許可のもと、テレビが集会室に運び込まれた。私たち神学生たちは、整然と並べられた椅子に腰かけ、テレビ画面を見上げた。ナジム神父は、ナチスによって、聖コルベとともに逮捕された一人で、過酷な収容所生活を体験した人である。普段は厳しい顔をしていたが、オリンピックのときだけは、笑顔でテレビ画面を見つめていた。
私たちが東京オリンピックを迎えたのは、東京・東村山市の修道院だった。東村山と聞けば、たいていの人は、タレントの志村けんさんをイメージするだろう。確かに修道院の近くには志村姓が多かった。けんさんが有名になる前に、コンベンツアル修道会の修道院と神学校が東村山に建てられた。1964年3月、東京・北区王子から引っ越した。約2万坪の敷地に、突如現れた真っ白い修道院と神学校は周囲の目を引いた。建物の長さは110メートル、3階建ての鉄筋コンリート造だった。神学生に初めて個室が与えられた。真新しい部屋は気持ちが良かった。トイレも風呂もピカピカだった。この東村山修道院の唯一の難点は交通の便に恵まれなかったこと。都心に出るのは一苦労だった。東京駅から修道院までの道順は、こうだ。まず山手線で高田馬場駅へ。ここで西武新宿線に乗り換える。川越方面行に乗り、久米川駅下車。そこから清瀬行きバスに乗って、晴望園前バス停で下車。さらに10分ほど歩いて、ようやく到着する。都心から修道院までは1時間半以上かかった。
東村山修道院の近くには、国立ハンセン氏病施設「全生園」があった。新米の司祭として、時々、朝のミサに行った。ミサに与るのは、苦労を重ねた年配の信者たち。ミサの奉納のとき、大きな声で聖歌をうたい始める。あまりの調子外れの歌に、思わず祈りの言葉を失ったことが度々あった。
東村山修道院時代には、さまざまな事件があった。アポロ11号の月面着陸、よど号のハイジャック事件、大阪万博、連合赤軍・あさま山荘事件、などなど。運転免許証を取ったのもこのころ。ガソリン1リットルが25円前後だった。思えば、消費税も介護保険料もない平和な時代であった。しかし、東村山修道院と神学校の寿命は短く、1973年5月には、諸事情により取り壊された。