北イタリアにパドヴァ(PADOVA)という都市がある。この街で「サント」(聖人)と呼ばれ、親しまれている人がいる。聖アントニオである。古代の隠修道士、聖アントニオと区別するために、一般にはパドヴァの聖アントニオと呼んでいる。パドヴァの人々の中には、復活祭に教会に行かなくても、聖アントニオの祝日には行く、という人たちもいると聞く。それだけ聖アントニオの人気は高い。聖人の記念日は6月13日。1231年6月13日に聖アントニオは亡くなっている。36歳の若さだった。小さき兄弟会と言われる、通称フランシスコ会の中で、アシジの聖フランシスコを除けば、聖ボナヴェントゥラと聖アントニオは二大聖人と言ってよい。アントニオは、イタリア人というイメージが強いが、実はリスボン生まれのポルトガル人なのである。若くして聖アウグスチノ修道会に入会し司祭になったころは、フェルナンドと呼ばれていた。

その若いアウグスチノ会員に強烈な刺激を与えたのが聖フランシスコの弟子たちのモロッコでの殉教だった。聖フランシスコが存命中、いちはやく5人の弟子たちがモロッコに派遣された。キリスト教を広めるためだった。しかし、モロッコは熱心なイスラム教徒の国。聖フランシスコの弟子たちは、イスラム教徒たちの手によって殺されてしまった。その殉教者たちの遺骸は、モロッコからイタリアへ運ばれる途中、ポルトガルのリスボンに寄った。尊い殉教者の遺骸を目の当たりにした、若きアウグスチノ会員、フェルナンドは心を動かされ、自分もフランシスコ会員にならって、殉教したいと申し出て、アシジの聖フランシスコの兄弟会に入会した。この時、アントニオと名付けられた。当時、アシジの聖フランシスコは生きていた。アントニオの非凡な才能を見抜いた聖フランシスコは、彼を説教師として方々の街へ送りだした。聖アントニオの雄弁さを物語るかのように、パドヴァの聖アントニオ大聖堂では、聖人の「舌」が巡礼者のお目当てになっている。ひっきりなしに訪れる巡礼者たちは、その遺物を一目見ようと行列を作っている。

コンベンツアル聖フランシスコ修道会のイタリアでの活動は、聖アントニオの膝元にあるパドヴァ管区の働きが群を抜いている。世界のコンベンツアル会員4000人余を束ねる総会長もパドヴァ管区出身である。聖アントニオの影響は、死後800年を経た今日まで続いていると言っても良い。なお、世界中の美術ファンの注目を集める、画家ジョットのフレスコ画で有名なスクロヴェーニ礼拝堂も、パドヴァにある。