4月24日は、コルベ神父とともにゼノ・ゼブロフスキー修道士が長崎に上陸した日である。また、同じ4月24日は、ゼノ修道士が死去した日でもある。1930(昭和5)年に来日し、1982(昭和57)年に帰天したので、滞日生活はちょうど52年間であった。

ゼノ修道士の日本での生活は「貧しい人たちとともに」あった。戦争直後の混乱期に、ゼノ修道士は長崎と東京を汽車で往復する。その途中で出会ったのが戦災孤児だった。住む家も親もない、ボロボロの衣服をまとった子どもたちが駅にたむろしていた。ゼノさんは、その子たちを見捨てておけず、一人、二人と長崎の修道院に連れて行った。それが、後の養護施設・聖母の騎士園につながった。聖母の騎士園は、終戦後70年を経たいまも長崎県諫早市で子どもたちの世話を続けている。

ゼノさんの活動範囲は、徐々に広がって行った。生活に困っている人々、災害で苦しんでいる人たちを訪ねて、必要な日用品を届け、力づけていた。黒い古ぼけたカバンを提げ、日本中を旅していた。台風や豪雨、火事、地震、などの災害が起きると、いち早く現地に赴いた。被災者がすぐ必要な品物、パンやタオル、ローソクなどの寄付を集めて配布した。その熱心な奉仕活動が認められて、ゼノさんには国鉄(JRの前身)総裁から無料パスが提供された。無料区間は札幌–長崎と記されていた。当時の国鉄の寛大さが偲ばれる。ゼノさんの日本人に対する無私の行動が、国鉄幹部を動かしたのだろうか。無料パスは国鉄だけではなかった。阪急も阪神も、東京地下鉄も西武、東京都バスなどの私鉄パスも、ゼノさんは持っていた。もちろん、普通乗車券のみだが、ゼノさんは無料で列車を利用することができた。

広島県沼隈町に「ゼノ少年牧場」という、ゼノさんの名前のついた施設がある。牧場と言っても牛や馬を飼っているわけではない。障害者の福祉施設である。ゼノさんは、「毎日新聞」大津支局長だった村田一男さんを口説き落して、障害のある子どもたちの世話にあたらせた。1962(昭和37)年4月のことである。はじめは知的障害児施設だったが、いまでは子どもから大人まで共に暮らす大きな共同体に成長している。現在、同施設を運営する法人は70余の事業を抱え、職員は465人もいるという。

ゼノさんが逝って34年。ゼノさんが播いた種は日本で根付いている。まだボランティア運動がなかった時代、自ら模範を示したゼノさんの残した功績は大きい。もし、いまゼノさんが生きていたら、福島にいち早く駆けつけたに違いない。