全教会と共に、2月22日の「灰の水曜日」より、四旬節に入りました。復活祭へと向かう道を歩みながら、信仰と希望を新たにし、開かれた心で一人ひとりを気づかい思いやりながら、キリストの足取りをたどって生きる愛を証していくことができますように。
四旬節は信仰を新たにする時。神とすべての兄弟姉妹の前で、いただいた信仰を再確認し、再出発する時です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ 2.6-8)また、キリストは人間の私たちが気づく前から愛してくださる神の偉大さを示し、私たちの人間性を最後まで身に受けすべての人に開かれ、いのち そのものである神へと導く道なる方です。これらは真理です。私たちの人生にこれらの真理を受け入れ、神を迎え入れ、再認識しながら回心していかなければなりません。
四旬節は希望を新たにする時。コロナ禍とウクライナ戦争など、多くの試練にあっても、イエスは、過越の神秘によって豊かに与えられた聖霊、裏切られることのない希望を注いでくださる方です。主イエスは、御父のいつくしみによって開かれた未来について話しておられます。主にあって希望し信頼することで、たとえ私たちに過ち、恐れ、不正義や不従順や暴力、愛する方を十字架にかける罪があったとしても、神と和解する恵みを受けられます。神が「万物を新しくされた」(黙示録21.1-6参照)時代に、イエス・キリストにおいて証(あか)しする者として希望を持ち、自分なりに精神を集中し、静かに祈る中で、灯を掲げて愛のわざを実現していくことができます。
四旬節は愛を新たにする時。愛は「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づける言葉」(回勅『兄弟の皆さん』223)、「無関心がはびこる中で、自分の心配事や急ぎの用事を脇において、相手を気遣い、微笑みかけ、励ましのことばをかけ、耳を傾けるために時間を割くことのできる優しい人」(同224)になることです。愛は私たちの人生に意味を与えるたまものであり、愛によって私たちは、苦しむ人を自分たちの家族、友人、兄弟姉妹として捉えます。愛をもって分かち合えば、わずかなものも決して底をつくことはなく、いのちと幸せのための蓄えとなります。
私たちの人生のあらゆる場面が、信じ、希望し、愛する時です。「信仰・希望・愛」を 新たにして、復活の光に共に向かって歩んで参りましょう。