3月6日夕刻、火災で仁川修道院は全焼しましたが、幸いにも人的被害や延焼はありませんでした。これは奇跡だと、多くの方が言っています。修道院の入口と東側ルルドにおられる聖母マリアのお守りがあったのでしょう!!

教会の伝統では5月はおとめマリアにささげる月です。仁川教会の私たちも「母の日」(5月14日)に「マリア祭」と「信徒集会」を行う予定です。

ルカによる福音書10章に、マルタとマリアについての記述があります。二人はベタニアに住んでいて、ラザロの姉妹であり、主イエスの親類であり、また忠実な弟子でした。マリアはイエスの足もとに座って、「その話に聞き入っていた」のに対して、マルタはいろいろのおもてなしのため、せわしく立ち働いていました。二人とも旅するイエスを、それぞれ違う仕方によって歓迎しました。マルタは、忙しさのあまり、イエスに向かって言います。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」するとイエスは優しく彼女をたしなめます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10・38-42)

イエスは二人の態度を対立させようとしたのではなく、私たちのキリスト教的生活にとってとても不可欠な要素を教えてくださいます。主のことばを聞いて、観想することと、隣人への具体的な奉仕です。それらは切り離すべきではなく、深い一致と調和のうちに実践すべきことです。

キリスト信者の私たちは、奉仕と愛のわざを、すべての行動の源泉から切り離してはなりません。この源泉とは、主のことばを耳に傾けること、マリアと同じように、弟子の態度をもって、イエスの足もとに座ることです。私たちの生活においても、祈りと行いを常に深く一致させなければなりません。祈りが、困っている兄弟姉妹に対する具体的な行いを伴わなければ、それは不毛で不完全な祈りです。また、教会の奉仕のわざを行う時、行動だけに注意を向け、事柄と任務と組織だけを重んじて、キリストが中心であることを忘れ、祈りの中でキリストと対話する時間をとらなければ、困難にある兄弟姉妹のうちにおられる神に奉仕するのではなく、自分自身に奉仕することになる恐れがあります。

耳を傾け、奉仕する聖マリアの取次によって、私たちは忠実に祈り、兄弟姉妹が必要としていることに具体的な仕方で目を向けることができますように。