6月号巻頭言の「聖体の弱さのうちに際立つ強さ」というテーマでは、聖体において、裂かれて粉々になるイエスには、いのちを与え、はぐくみ、一つに集め、過ちをゆるす愛の力があると述べました。
3年以上コロナ禍のため、個人にとっても、教会共同体にとっても、一番大切な聖体の秘跡に共にあずかることができなかったことは、大きな苦しみであり、悲しみでした。まだそれらの霊的な渇きを覚えていると思います。ある程度コロナ禍から解放された今、私たちは、改めて「聖体は交わりを作り出し、交わりを育み、一つに集める」ことを再認識しましょう。
『教会憲章』(第2章・11)には、聖体のいけにえは「キリスト教生活全体の泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身をもささげる」と記されています。また、回勅『教会にいのちを与える聖体』(第3章)において聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます」と述べています。
聖パウロは「コリントの教会への手紙一」(10・16-17)で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。
私たちの信仰は、「交わり-共同体」のうちにある信仰です。つまり、私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりの中で、生きている信仰です。
ですから、教会共同体生活と自分の信仰生活においては何よりもまず、「信仰・希望・愛」をもち、ご聖体とみことばのうちに現存される主イエス・キリストとの出会いを大切にし、一人ひとりの信仰生活、ごミサをはじめとする教会共同体の祈り、教会のすべての活動を豊かにする聖霊の働きを願い求めましょう。「対神徳」の土台の上で、一人ひとりが自分に与えられた賜物を用いて、生き生きと主体的に主に仕え、一つの体として祈り合い、支え合い、受け入れ合い、重荷を負い合っていくことができるように。そして社会のただ中にあって、福音を証し、告げていくことができるように共に祈り前進しましょう。