6月は、カトリック教会ではキリストの聖体とみ心を祝っていたことから、「イエスのみ心の月」と自然に定められたと伝えられています。
マルコ14章22節に、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である』」と最後の晩餐について書かれています。
このように、イエスは謙(へりくだ)りながらも、もっとも偉大な秘跡をお与えになります。イエスは大勢の人にあふれるほどのパンを配るのではなく、弟子たちとの過越の晩餐でご自分を裂いておられます。聖体において私たちは、改めて、パンのかけらのうちに、愛にあふれる分かち合いに満ちた弱さのうちに、神の偉大さと強さを見いだします。聖体において、イエスは裂かれて、粉々になるパンのように弱くなられます。しかし、この弱さにこそ、愛にあふれ、分かち合いに満ちた強さがあります。裂かれて共有されることにより、いのちを与え、はぐくみ、私たちを一つに集める愛の力となるのです。
聖体の弱さのうちには過ちを犯した人々を愛する力もあります。イエスはご自分が裏切られた夜に、いのちのパンをお与えになります。心が深く沈んでいるときに、もっとも偉大なたまものをお与えになります。裏切られたイエス自身は、より大きな善によって悪に応じておられます。罪びとを罰するのではなく、ご自分のいのちをお与えになります。
私たちが聖体を受けるたびに、イエスは私たちの弱さに新たな意味を与えてくださいます。イエスは、私たちが自分たちの弱さをご自分と分かち合うたびに、喜びを感じると私たちに告げておられます。ご自分のいつくしみは、私たちの咎(とが)や憂(うれ)いの前に引いてしまうことはないと、何度も語っておられます。私たちが自分ではどうすることもできない弱さを、イエスは愛をもって癒してくださいます。
聖体は、イエスの生き方に私たちも倣うことができるようにと働きかけます。善をもって悪に立ち向かうために、ご自分を裂き、兄弟姉妹に与えるイエスの力を、私たちに授けます。聖体は2000年にわたって、喜びの中でも苦しみの中でも、多くのキリスト信者を支え続けてきました。私たちはどんなときに、聖体のイエスを親しく感じ、聖体に支えられ、励まされてきたでしょうか。
これからも信仰・希望・愛を新たにして、ミサの大切さと聖体礼拝を再発見しましょう。そして、聖体の中のイエスが、私たちに寄り添われるように、私たちも喜びと平和のうちに出向いて愛を証(あかし)しに行きましょう。祈りと感謝のうちに!