多くの闇の中で私たちは、さまざまなことを自分自身に問いかけます。そこには神の現存についての問いかけもあります。
四旬節、特に聖週間の間、イエスの受難の物語は私たちに寄り添い、私たちを支えます。そこにも、さまざまな問いかけがあります。イエスはエルサレム入城を盛大に迎えられたのに、どうして同じ群衆に嘲笑され、逮捕され、十字架に付けられたのか。イエスに公に宣言して従った人々はどうして戸惑い、恐れ、イエスを見捨てるのか。侮辱され、死刑宣告されたイエスはどうして沈黙したのでしょうか。
さまざまな問いかけがある中で、十字架上のイエスの姿を見つめましょう。そのイエスを静かに見つめることによって、私たちはそこで神の御顔(みかお)を知ることができます。
イエスは神としての力をもちながらも、私たち一人ひとりと同じ人間となられ、その姿を示しています。イエスの本当の姿について、福音書では、息をひき取られた時、異教徒であったローマの百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)と言う場面が書かれています。神は愛のうちに全能な方であることがはっきりと示されたのです。
主イエス・キリストの過越は、私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をゆるし、死をいのちへの道とし、私たちの恐れを信頼に、不安を希望に変えてくださいます。神がともにいてくだされば、すべてが良くなると私たちは心から信じることができます。イエスの死と復活は幻ではなく、真実だからです。恐らく、悪にまつわる苦悩にみちた問いかけは、すぐにはなくなりませんが、沈み込まないように「恐れることはない」(マタイ28・5)というみことばを心にとめて過ごしましょう。
兄弟姉妹の皆さん、主イエスはわたしたちに寄り添いながら、いまだに悪が刻まれている歴史を救いの歴史に変えています。十字架上のイエスの裂かれた心臓から、神の愛がわたしたちに注がれています。私たちはイエスに近づき、イエスが与えてくださる救いを受けとめることにより、歴史を変えることができます。今月、できれば、十字架像と福音書を手にとり、祈りのうちに心を完全に開き、日々を過ごしましょう。そうすれば、わたしたちは独りではなく、愛されていることが分かるでしょう。主は決してわたしたちを見捨てず、必ず救ってくださるからです。こうした思いのうちに、皆さんと共に四旬節、聖週間を過ごし、よい復活祭を迎えたいと望んでいます。