年明け早々、能登半島地震の被災状況が徐々に分かり心を痛めていたところに、羽田空港の事故のニュースが報じられ、胸が締めつけられる思いです。
私たちも、いつ災害や事故に遭遇するか分かりません。地震と事故などの闇による残酷さに直面する私たちは、「神はどこにいるのか。全能の神、平和と愛である神とは何であったのか」等と問い、嘆きの声をあげるのが当然です。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」=「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という十字架で処刑されたイエスの最後の言葉も、神不在かと嘆く私たちの叫びと同じだと言えるでしょう。
おそらく、無神論者が神の現存を否定する最も強力な根拠は、苦しみと悪でしょう。彼らは、全能と愛という神の二つの特質に依拠しており、それがいわば「神に死刑宣告する」ことになるのです。彼らにとって「全能の神であれば、地上に苦しみや悪が存在することを許せない、いつくしみ深い神であれば、人間の残酷な運命に無関心でいることはできないだろう」と。彼らは絶望の只中で叫ぶ人々に希望をもたらさない「神の姿」を描きます。しかし、信仰者の私たちが人生の積極的で霊的な性質を受け入れる時、人間の苦しみのあらゆる瞬間に、神の生きた完全な現存を容易に発見することができます。なぜなら、信仰とは、自然や人為的な災害からの現実の救いを期待することではなく、絶望の中にあってもより深いところで神を見つめ続けようとすることだからです。幸せな人生とは、たとえ、闇の中を歩まねばならない時であっても、「神はおられる」「神は隠れておられる」「神を探そう」と歩み続ける人生だと思います。神秘である苦しみそのものが、人間の存在と密接に結びついていることを再確認する必要があります。私たちは、絶望・暗闇の状況の中で、十字架上でのイエスを黙想することによって、苦しんでいる自分自身を認めます。そして、私たちの近くにおられ、寄り添い、苦しみをともに味わっているイエスを知ることができるでしょう。
主イエスは私たちの人生のあらゆる瞬間に、特に閉ざされ、見放されているように見える苦しみの時こそ、いつもともにいてくださるのです。主イエスは私たちの人生の唯一の希望であることを再確認しましょう。
神への信頼と希望を新たにして信仰生活を送り、災害・戦争によって苦しく不安な日々を過ごす方々の心を照らし支えてくださるように心を合わせて祈りましょう。
来る四旬節第2主日にテモテ・マリア中(なか)野里(のり)晃(こう)祐(すけ)神父様を迎えて、人生の意義と目的について黙想会を過ごす予定です。気を落とさずに主に従っていきましょう。