12月3日(日)から始まる今年の待降節。待降節は、2000年以上前に古代ユダヤ人がイスラエルを罪の奴隷状態から解放してくださるメシアを待ったことを思い起こす時であり、神の独り子の降誕祭を準備する期間であり、また一人ひとりの人生の最期(さいご)の瞬間を待つように招く時です。

待降節の「待」つということは聖書の中で広く行きわたっているテーマであり、とりわけ「主を待ち望む」ことの大切さを教えてくれます。「主を待ち望め。雄(お)々(お)しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編 27・14)。「『主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる」(哀歌 3・24-25)。

「待ち望む」のヘブライ語は“ קָוָה(Qavah – カヴァ)”で、これには「期待して、希望をもって待つ」の意味に加え、「縄(なわ)を綯(な)う、撚(よ)り 合わせる」、または「縄のように共に結びつけること」の意味が含まれています。このように、待降節は偉大な方の誕生と重大な出来事が起こるのを待つ時で、期待、変容、喜び、平和、そして愛をもたらします。

人は、生まれた時から神のみ顔にまみえることを期待して生きているので、一人ひとりの全人生は長い「待降節」であると言えます。この地上での私たちの全人生は、来世の人生に備えるための待つ時間です。故に、待降節はクリスマス前の4週間や特定の季節に限定されるものではないことにも気づきます。人生をかけて待つことは、短期間の表面的・感情的なものではなく、心の底から喜びと希望のうちに待つ体験です。なぜなら、待つことによって良い未来に起こる新たな変化を体験することができるからです。

希望のうちに待つのは、より深い価値観を指し示してくれる体験です。心の底から、救い主である神の独り子イエス・キリストの降誕祭と自分の終末を待ち望むことができます。

待降節は一時的なものではありません。この特別な期間を通して、私たちは人生において、全人類とすべての被造物に対する神の大きな愛のしるしを再認識していかなければなりません。「主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ、谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険(けわ)しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(イザヤ40・3-4)。

良いクリスマスを迎え、良い信仰生活を過ごすために、大天使ミカエル外山 祈神父様を迎えて、12月10日(日)9時ミサから待降節の黙想会を執(と)り行います。どうぞ、共に立ち止まり、心を開いて振り返りながら、この大切な季節を過ごしていきましょう。 お祈りのうちに!