信仰生活において、主イエス・キリストの教えと生き方に従う身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざを決して引き離すことはできません。身体的な慈善のわざを通して、私たちは食料や衣服、住居、かかわりを必要としている兄弟姉妹のうちにおられるキリストの肉に触れます。一方、精神的な慈善のわざ――助け、学び、ゆるし、支え、祈りなど――は、自分たちが罪人であることを悟らせ、兄弟姉妹におられるキリストの心に直接的に触れさせてくれます。

最後の精神的な慈善のわざとして、生者と死者のために神に祈ることが求められます。その中に「死者の世話・死者の埋葬」は身体的な慈善のわざであり、精神的な慈善のわざです。キリスト者にとって、埋葬は慈善のわざであると同時に、深い信仰のわざでもあります。私たちは、愛する人が復活することを願いつつ、その遺体を埋葬します。それは私たちキリスト者の心に刻まれ、固く守られてきた儀式であり、死者のために祈る月であるこの 11月には、特別な響きをもっています。

亡くなった方々を思い起こし、墓(憩堂)の世話をし、安息を祈り、ミサをささげる私たちは、復活の神秘を信じ、人間の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えます。そして、死は人間の運命の最後ではないという確信に基づいた希望のあかしによって、キリストの神秘体の交わりを示すのです。キリスト信者は、死が人生の終わりに思えたとしても、それは新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからです。

これから主キリストが約束された復活の希望に支えられ、神のもとに召された兄弟姉妹と共に永遠の喜びを分かち合うことができるように、と願い求めながら聖金曜日にイエスの十字架の傍らにいたおとめマリア、ヨハネ、何人かの女性たちとアリマタヤ出身の議員ヨセフを見倣って、私たちも身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざをもって亡くなった兄弟姉妹を世話し、通夜式と葬儀ミサ、告別式と葬送式に参列し祈りましょう。そして、「聖徒の交わり」の信仰を新たにして先に旅立った家族、親戚、友人、恩人だけではなく、戦争の犠牲となった方々、すべての死者を思い起こし、彼らの墓・納骨室の前で、少なくとも心の中でも立ち止まり、彼らの霊魂を救い主にゆだねて祈りましょう。

「主よ、永遠の安息を彼らに与え、不滅の光で彼らを照らしてください。彼らが安らかに憩いますように。」アーメン。