私たちは競争社会に生きています。この競争社会には資本主義の功罪の両面があります。功では豊かな社会を形成しました。しかし罪では、強い者の社会を形成し、支配・抑圧・搾取・貧困を広げています。経済面だけではなく、スポーツ、学校、教会においても競争システムに支配されていると言えます。成功と勝利を目指す仕組みである競争システムは、負けた者が排除される仕組みで、他人と自分との比較が生み出します。
今夏は4年に1回のサッカー欧州選手権と東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。スポーツには体を動かすことによって健康を維持したり、他人と協力したりする役割がありますが、非常に大きな問題とされるのは、勝ち負けの問題です。スポーツでは「準優勝者は最初の敗者だ」と言われています。
表彰式において最も喜びを感じるのは金メダルを獲得した者で、最も悲しさ・悔しさを感じるのは銀メダルを獲得した者でしょう。
競争社会に生きるキリスト者の私たちは、どうすれば信仰生活を上手く送ることができるでしょうか。
コリントの信徒への第1の手紙で、聖パウロは自分の経験と原動力を分かち合ってくださいます。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(一コリント9・24-25)。「朽ちない冠を得るために節制するのです」という聖句を通して私たちは皆、優勝を得ることができると考えられます。キリストと共に天国の喜びを味わうことができます。もちろん、天国の喜びを得るだけではありません。同じコリントの信徒への第2の手紙に聖パウロは「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリント5・10)と書いています。
キリスト者の私たちは神の国を獲得するためにそれぞれの走る道・競技があります。私たちの優勝メダルとは、天国を得ることだけではなく、神を喜ばせ、日常生活において信仰を証することです。
どうか、文化や国籍などの違いを越え、友情、連帯、フェアプレーの精神をもってお互いに理解し合う、平和の社会となりますように。置かれた場所で競争社会と協力社会を逆転させ、自分の走る道を全身全霊で前進することができますように。