教会は伝統的に11月には、死者を思い起こし、墓の世話をし、安息を祈り、ミサを捧げるよう、つねに促してきました。
私たちは、人の死を受け入れ難く、死の力を取り除き、死を払いのけようとしているのではないでしょうか。「幸福(良い気分)の文化」は、死の現実を取り除こうとします。しかし、キリスト教の信仰は、むしろ死と向き合うことを助けるものです。私たちは皆、遅かれ早かれ、死という扉を通っていくのです。
福音書では、死は盗人のように来ると書かれています。死の訪れをどんなにコントロールしようとしても、また自分自身の死を計画したとしても、死は依然として向き合わなければならない出来事です。
キリスト者の私たちは、他の被造物と同じように、死を避けることはできません。しかし、「死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられている」と葬儀ミサの叙唱(一)「復活の希望」に書かれているように、死という神秘を照らす真理の光は、キリストの復活から生じます。聖パウロはこう記しています。「キリストは死者の中から復活した…死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そし て、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(一コリント15・12-14)。復活されたキリストは、私たちの間に生きています。死の暗い扉の向こう側で私たちを待っている光です。
復活されたキリストへの信仰によって、私たちは死への恐れに圧倒されずに死の淵と向き合えます。私たちは、いずれ何も持たずにこの世を去るのです。良い死を迎えるために、この世のものを貯め込むのではなく、慈善のわざを増やすだけでいいのです。高齢者、病人を孤立させず、いのちの尊厳への意識を持ち、自然に死を迎えるまで寄り添い、大切にし、愛することができますように。旅立つ時まで、まわりのすべての存在を大切にし、「信仰・希望・愛」をもって生きましょう。死を前にして、多くの問題は小さなことになります。すべてを慈善のわざとして和解し、わだかまりや後悔なく死を迎えましょう。私たちは皆、死という暗い扉に向かって歩んでいる途中ですし、その扉の前にいるからです。
私たちの人生の最後の一瞬までもそばにいてくださる神のいつくしみを願い求め、聖徒の交わりの神秘を黙想しながら、聖母マリアに「今も、死を迎える時も、お祈りください」と良く立ち止まって願いましょう。