新型コロナウイルスのパンデミックによって、世界でこれまでに113万人を超える人が亡くなり、日本国内では10月20日の統計で1679人が死亡しました。コロナウイルス感染の恐れから、私を含めて多くの人は大切な人との最期の別れができませんでした。それ以上に、遺族の心に大きな悲しみや後悔の念を残すこともあります。

確かに、親しい人との別れは、誰にとっても悲しいことですが、死の神秘の前でカトリック信者の私たちはどうでしょうか。

親しい人や自分に死が迫ると、私たちは自分自身にその備えができていないことに気づくでしょう。死を直視することによって、死は私たちの人生を裸にするのです。また、死は完全な理想に向けて生きるために欠かせない不可避な現実であると気づかせてくれます。

死について考えれば考えるほど、私たち人間は小さく、無防備な存在だと気づきます。また、死は、うぬぼれや怒り、憎しみや権力などがむなしいことをも気づかせてくれます。その時、改めて自分たちは、十分に愛してこなかったこと、本当に大切なものを求めていなかったことに気づき、後悔するでしょう。その一方で、自分が種をまいた、真に良いものを見出します。それは、私たち自身を支えてきてくれた最愛の人であり、今私たちの身近にいる人々です。

イエス自身は、人間の死を前にして「ひどく」動揺し、「涙を流されました」(ヨハネ11・35)。また一方で、「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5・36)、「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。・・・」(ヨハネ11・25-26)と教えられました。

死の神秘の前では小さく、無防備な私たちは、死の瞬間に、このキリストのことばに慰めと希望を見出します。イエスはヤイロの娘の手を取ったように、私たちの手を取り、もう一度「タリタ、クム」「少女、起きなさい」(マルコ5・41参照)と言ってくださいます。

この「死者の月」に当たり、一度でも良いですから、目を閉じて、自分が死を迎える時を想像してみたらどうでしょうか。私たち一人ひとりが自分の死について考え、死を迎える瞬間を思い浮かべるのです。イエスが私たち一人ひとりのもとを訪れ、優しさと従順さと愛をもって私たちの手を取ってくださる様子を、一生懸命想像してみてください。また、『詩編90・12』を使って祈りながら前を向いていきましょう。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」アーメン。