子どもたちを見ると、人類の大切なたまものとしての存在と、傷つけられ苦しめられている存在の両方が思い浮かんできます。

子どもは、御国に入るのに必要な条件をいつも私たちに示してくれます。その条件とは、自分で何でも出来ると考えずに、他からの助けと愛とゆるしが必要であると考えることです。私たちは皆、助けと愛とゆるしを必要としています。

私たちは、歳を重ね、大人となり、親となったと言っても、自分でいのちを生み出したのではなく、いのちをいただいたというのが事実でしょう。私たちは根本的に子どものように誰かに頼っている者なのです。

どんな時にも、どんな状態にあっても、どんな社会的状況におかれても、子どものような心を持ち続け無ければならないと認識し、思い起こします。しかし、現実には私たちはそのことをしばしば忘れ、自分が自らの存在の主人であるかのように感じてしまいます。

子どもはいつも自分の両親、神様、イエス様、マリア様を自然に信頼します。また、純粋に物事を見通します。彼らは感じたままに、見た通りのことを話します。裏表がありません。子どもはまた、率直な心で受け入れ、優しくする力も備えているし、笑ったり泣いたりすることも自然なことです。しかし、私たち大人は、多くの場合、張り付いたような笑顔、生気のない笑顔、道化師のような作り笑いになってしまうのです。私たち大人の心は、しばしば抑えつけられ、笑うことも泣くことも出来なくなってしまいます。

イエス様は私たちに「子どものような者になる」よう促したのです。「神の国は子どものような者たちのものだからです」(マタイ18・3、マルコ10・14参照)。

子どもは、私たちに多くの素晴らしい贈り物を思い起こさせてくれるのです。しかし、大勢の子どもが、生まれた時から拒絶され、見捨てられ、幼少期も未来も奪われています。貧困国では、社会の片隅に追いやられ、見捨てられた子ども、学校に通うことも、診察を受けることもなく、物乞いをしながら路上で何とか生きている子どもがいます。一方、富裕国と呼ばれる国々でも、多くの子どもが家庭の危機や教育の格差、さらには非人間的な生活環境のために、悲惨な状況に置かれ、深く傷ついています。

子どもの中に幼子イエスの姿が現存しています。待降節を過ごし、降誕祭を迎えようとしている私たちは、改めて子どもの姿を良く見つめ、多くのことを思い巡らしながら謙虚のうちに祈り、奉仕し合っていきましょう。