11月は、カトリック教会では「死者の月」とされている。亡くなった方々を偲んでミサをささげ、墓参りをする習慣がある。仁川教会では、月初めの日曜日に合同追悼ミサを挙げ、マイクロバスで甲山墓地と満池谷墓地に墓参りに行く。

今年も多くの方々が人生の幕を降ろして、天に召されて行った。その中に、日本のカトリック教会において、長年、教区長の要職にあった「司教」が3人含まれている。その司教様がたを偲んで、ご冥福を祈りたい。

最初に、元大阪教区長、安田久雄大司教。安田大司教は、1978年11月から1997年5月まで、約19年間大阪教区長の任に当たった。安田大司教にとって、最大の試練は1995年1月17日に起きた、阪神淡路大地震だった。被災した教区の復興に全力を傾けた。神戸地区の小教区の再編、教区の「新生計画」の策定、大司教館の西宮・甲陽園から大阪・玉造への移転など、大きな事業を断行した。安田大司教は、聖職者の道に入る前、東京大学農学部水産学科を卒業、神戸気象台に勤めた経歴を持つ。姫路・仁豊野のホームで静かな晩年を過ごし、今年4月23日逝去した。94歳だった。

次に溝部脩司教。溝部司教は1935年3月北朝鮮生まれ。14歳の時、別府で受洗。サレジオ修道会に入会。同会日本管区長を務めた後、2000年6月、仙台司教に任命された。2004年5月、高松教区長に任命され、2011年3月まで務めた。高松教区では、懸案の神学校問題の収拾に奔走、長年の混乱に終止符を打ったと言われる。高松教区長を退いてからは活動の場を京都に移した。京都・西陣教会に「望洋庵」を立ち上げ、若い世代向けの宣教に情熱を注いだ。また、高山右近の列福の陰に溝部司教の功績があったことを忘れてはならない。今年2月29日に逝去。81歳だった。

3人目の司教は三末篤實司教。長崎県平戸島生まれ。長崎公教神学校、福岡サン・スルピス大神学院を卒業して、司祭叙階。長崎教区の多くの小教区で働いた後、1985年6月、広島教区長に任命され、2011年5月まで約26年間、教区長を務めた。任期途中から「人工透析」を余儀なくされ、週3回病院に通いながらの生活を送った。病を背負いながらも司教は、明るさを失わず、病院通いを宣教の仕事と受けていたようだ。三末司教の後任は前田万葉司教だったが、2014年9月、大阪大司教に転出した。その後2年間、広島教区長は空位のままだった。新広島教区長に白浜満神父が任命されたのと同じ6月28日に、三末司教は神に召された。80歳だった。
主よ、永遠の安息を3人の司教にお与えください。