6月6日から11日まで、長崎に行って来ました。5泊6日の黙想会です。黙想会とは、年に一度、修道者に義務付けられた行事です。黙想とは、読んで字のごとく、黙って想うこと。期間中、沈黙のうちに、祈りながら、指導司祭の講話を聴きながら、過去一年間の修道生活を振り返りながら過ごします。6時半のミサに始まり、共同の食事、昼の祈り、晩の祈り、就寝にいたるまで、24時間、おしゃべりは厳禁です。かつては、修道院の食事はほとんど沈黙でした。しかし、第二バチカン公会議後、1965年ころから次第に、修道院に沈黙の雰囲気がなくなりました。最近では食事中、自由に会話を交わしています。ですから、沈黙の食事は、黙想会くらいのものです。黙って食事するなんて味気ない、と思われるかもしれませんが、慣れると苦痛は感じません。かえって、沈黙のほうが、食事に対する感謝の念が深まり、消化にも良いように感じられます。食事のメニューには、当然、黙想会が開かれる土地の食材が使われます。今回の黙想会場は、長崎のイエズス会立山黙想の家でした。夜ともなれば、世界三大夜景に認定された長崎の街の灯が見渡せます。まさに絶景です。
食物は、長崎特産が供されます。ピチピチの刺身は最後の夕食だけでしたが、毎朝のメニューには、必ず海の幸がありました。魚肉をふんだんに使った分厚い竹輪、天ぷらと呼ぶ、さつま揚げなどです。
黙想会の指導司祭はイエズス会の松村信也神父様でした。ここの黙想の家の責任者です。2年前まで、神戸・カトリック六甲教会の主任司祭でした。神父様は、上司から「長崎の黙想の家に行け」と言われた時、「嫌だ」と思ったそうです。これから小教区の仕事が充実するのに、なぜ、転任しなければならないのか、と疑問を持ったそうです。しかし、そんなとき、教皇フランシスコの言葉が浮かんできたといいます。「自分が居心地がいいと感じた時は、そこにいるべきでない」。松村神父様は、私的にも教皇フランシスコと親しい間柄と聞いています。神父様は教皇の言葉を噛みしめて、長崎に赴任したのです。松村神父様は、自分の体験を交えながら、修道生活に欠かせない重要なテーマを取り上げて、示唆に富んだ話を聞かせてくれました。「奉献生活」「共同生活」「宣教活動」「奉仕活動」など。雑務から完全に解放された5泊6日のぜいたくな黙想会は、精神的にも肉体的にも、大きなリフレッシュ期間であり、充電期間でした。この黙想会の恵みを、これからの小教区活動のエネルギーとして生かしていけたらと願っています。